境内
山門(町指定文化財)
山門は元禄五年(1692年)に建立されたもので、明治三十七年の火災の際に焼失を免れた唯一の建物である。和風唐様式で創建当時の姿を保っている。山門内側に立派な彫刻が施されている。山門の両袖には詩文(柱聯:ちゅうれん)があり、室町時代中期に絶海中津(ぜっかいちゅうしん)著作の詩文集「蕉堅稿(しょうけんこう)」の一説が掲げられている。右に「流水寒山路」、左に「深雲古寺鐘」とあり、説明に「山中幽深之妙趣 蕉堅稿」とある。「流水寒山路」と「深雲古寺鐘」は、「谷川に沿って延びる人気のない寒々とした小道。そこを歩いていると、深く立ちこめた雲の彼方から古寺の鐘の音が響いてくる情景」を言い、「山中幽深之妙趣」は、「山の中の静かで奥深く非常にすばらしい味わい」の事を言う。
三本松のお地蔵さま
地蔵堂の由緒は一乗寺の古文書によると、地蔵堂のあった一帯(小沼村と小明見村の境)は、その昔富士山を遥拝(ようはい)する場所であり、衆生の供養の祈願所でした。また前の道が富士みちであったため富士登山や駿河の国への往来も多く、景色も良かったことで茶屋などもあり、大変賑わっていたという。平安時代初期の富士山の延暦噴火(800年~804年)により、その一帯が噴火による溶岩で覆われてしまった。その後、元禄二年(1689年)にこの溶岩で覆われた原野を惜しんで、ときの一乗寺 住職 鳳谷守逸和尚が開墾して、勧請(かんじょう)し、虫殺供養のためお地蔵さまを安置し一堂宇を造ったとされています。大正元年に本尊の無辺身地蔵菩薩(むへんしんじぞうぼさつ)は、この一乗寺の地蔵堂に移されました。現在でも、夏の八月二十四日には祭礼が行われています。
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)
「衆善奉行」は、有名な一休さんで知られる「一休宗純(いっきゅうそうじゅん)」の書でも有名です。この言葉の意味は、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」の一説で「諸々の悪をなさず、諸々の善いことを行い、自ら心を浄める、是れ諸仏の教えなり」という。七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)禅宗においては、特に重要視された偈であり、日常の読経にも取り入れられているものです。頭で理解していても、実際にそれを実行することは難しく、そしてそれが簡単で当たり前であればあるほど、人はついおろそかにしてしまうものです。悪い事をせず、善い事を行う、この当たり前すぎるほど当たり前のことを、常に心がけ、常に行い続けることこそ、仏の道があるという教えです。
こどもはんにゃしんぎょう
「こどもはんにゃしんぎょう」は、江戸時代に字の読めなかった庶民のために般若心経を絵で表した絵心経をもとに、一乗寺にて作成したものです。
楽しく般若心経に親しんでいただければと思い作成いたしました。